62,114,116,97,105,100,98,115,60)) Av女優 無修正 - ポルノ動画 @ トモダチンポ -. 朝比奈 豊1989年4月 「体をほぐすイチロー」。イチローストレッチである。 1939(同 14)年 毎日新聞ベルリン特派員。 楽譜のダウンロードとコンビニ印刷♪「君さえいれば / Weather Forecast(ウェザー・フォーキャスト)」のピアノ・ソロ譜(楽譜提供:リットーミュージック)を今すぐ入手!ダウンロード440円 document.write("
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倉嶋さんの文章にある同僚が私(堤)なんです。1974(昭和49)年5月、大阪社会部から東京社会部に戻って遊軍・夕刊3面担当になった。キャップが高井磊壮さん(1990年没、59歳)、サブキャップが倉嶋康さん、兵隊が1年先輩の寺光忠男さんと私だった。, 夕刊3面については、整理マンの鬼才・諸岡達一さんが「ゆうLUCKペン」第42集(2020年発行)にスタート時のことを書いている。夕刊改革の目玉として誕生、1971(昭和46)年3月1日の初日は、国鉄鶴見線の12駅が無人駅となって「駅員76人が”消えた”」。, 社会部の名文記者・杉山康之助さん(1979年没、42歳)がルポを書き、諸さんがレイアウトを担当した。, 「4本足のニワトリ」の話は、秋田版から拾った。「都会ならあり得るかも知れないが、秋田で?」と疑問の声が出て、即現地へ出張。秋田大学の学生が画いた「4本足のニワトリ」の何枚かを先生から借りてきた。, この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を 新選組!メイン・テーマ, 53. ●浅野 廣三 2019年没、100歳。 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429087.html, 2006年8月24日、この日は私の定年式だった。といっても、そのさき3年間の再雇用が決まっていて、それも引続き同じ職場で働くことになっていた。一方では、それまでとそれからの時間には大きな断絶があることも確かだった。なんとなく落ちつかない気持ちのまま、定年式と退職に伴う手続きをすますと、習志野の自宅へ飛んで帰った。そして、取るものもとりあえず、妻と一緒に実家のある館山へ車で向かった。, この日は南房総では地蔵盆にあたっていた。私の家では、この年の3月に父親が亡くなり、8月1日から31日までの1ヶ月間に新盆の行事がいくつかあり、地蔵盆の日には、旧西岬村の6箇所にある地蔵さまを廻りお参りする習わしがあった。, 実家のある集落には、そのころまではまだ念仏講が残っていた。その法要で唱える念仏の1つに「六地蔵」がある。現在残されている経本は、もとの形が崩れているらしく、意味のとれないところもあるが、この地蔵廻りの趣旨をそれとなく感じとることができる。, 一、南無仏の大慈大悲の誓いにて、弥陀の浄土へ守り給へよ(小沼) var str="", str_as=""; ph1 実家で催された念仏講。百万遍の数珠繰り。館山市小沼。2011年10月17日。, ph1 福岡県田川市。日田から小倉への車窓から。いくつもボタ山が見える。「そのボタ山もボタを積まなくなって久しいものが多く、(中略)やがてここに木が茂り、独自な山容をもった小山が、炭坑地帯の記念として長くのこっていくのではないかと思われる(『私の日本地図11』), ph2 佐賀県鹿島市浜町。昔ながらの河港の姿を残す浜川と川沿いの町並み。長崎から博多への列車の車窓から。右手前に停泊している船には寝具と見られる洗濯物が干してある。道端では2人の男が立ち話をし、その傍らをネコが道を横切ろうとしている。川の両側に小屋があるが、その中で養殖カキの実を取りだす作業をしたといい、河原にはカキ殻が散らばっている。「4月27日。(長崎)。晴。よい天気になる。8時半の博多行準急にのる。よくすいている。もう菜の花もさかりをすぎている。博多にて1.50の山陽にのる。車中『週刊公論』をよむ。柳井でのりかえて大畠へ6時すぎにつく。そして終バスの1つまえのバスにのる。家へかえって見るとテレビすっかりとりつけてあり、(三男の)光見ている。これが家の生活をかえるだろうか」(『日記』), ph3 青森県むつ市から新潟県新潟市へ。車窓から。藁葺き屋根の集落。庭に馬が繋がれている。青森県内(8月29日)。「一つだけ見、一つだけ書きとめても、たいしておしえられるものではありませんが、いくつもいくつも、スケッチしたり、見たことを書きためていますと、そのなんでもないもののなかにも、たいせつな意味があったり、またそれをつくり出した人自身も、たぶん、気づいていなかったようなことまで、わかってくるのです。(中略)私は屋根の形を見るのがすきです。そして汽車の窓からながめていて、書きとめておくのですが、汽車は走っているのですから、すぐにゆきすぎてしまって、ていねいにはかけません。それでもたくさんたまると参考になることが多いのです」(『宮本常一著作集7』), ph4 青森県。下北半島。車窓から。破船。「5月15日。朝8時に起きて9時市役所へゆき、それより大湊から脇野沢、九艘泊までゆき、川内へひきかえす。昼食をたべて畑、野平、仏ガ浦、佐井、大間、大畑、田名部。山本さんの家で夕はんをたべ、下北から汽車。野辺地で寝台車にのるとすいている」(『日記』)。「昭和30年を境にして、船は木造から鋼船にきりかえられることになり、それには補助金も出ることによって、木造船の多くは焼きすてられた。しかし焼ききれずに捨てた船も少なくない。そうした船が渚に打ちあげられて、半ば砂に埋もれているのを下北半島の陸奥湾の沿岸で何艘も見かけたが、下北ばかりでなく種子島の東海岸でも見かけた。家庭でプロパンガスを使うようになると、船の古材を薪にする者はいなくなったのである」(『空からの民俗学』), 堀越章キャップ時代、旧警視庁七社会のお別れ会。左からぐるっと(敬称略)、坂巻煕、その後、諸岡達一、白木東洋、前田昭、宮武剛、加納嘉昭、今吉賢一郎、市倉浩二郞、松田博史、(2人の女性を除いて)根上磐、山本進、内藤国夫、佐々木叶、開真、山口清二。中央に堀越章キャップ, 堀越章キャップ時代、旧警視庁七社会のお別れ会。左からぐるっと(敬称略)、坂巻煕、その後、諸岡達一、白木東洋、前田昭、宮武剛、加納嘉昭、今吉賢一郎、市倉浩二郞、松田博史、(2人の女性を除いて)根上磐、山本進、内藤国夫、佐々木叶、開真、山口清二。中央に堀越章, 隅田川に架かる旧新大橋。1912年の竣工。関東大震災で1万人以上がこの橋の上に避難して助かった。1962年11月, 青森県むつ市大字田名部。恐山地蔵堂。死者の口寄せをするイタコとそれに聞き入る参詣客。1964月7月22日。, 山口県大島郡周防大島町大字浮島楽江。学校から船で帰る小学生。1960年10月26日, ポートフォリオ「東京ラビリンス」01と同じ建物。賄いつきアパート「日本館」。新宿区高田馬場1丁目。2017年2月17日。, 右は賃貸アパート「モリヤ荘」。左は「岩渕荘」。旧吉原遊郭。建物は双方とも1957年まで遊郭として使われた。台東区千束4丁目。2012年6月21日。, おかず横丁の北側にある一画。正面を銅板で葺いた商店。一階が店舗で二階が住居。屋上にペントハウスを増築している。台東区鳥越1丁目。2012年1月25日。, 同潤会「上野下アパートメント」。最後の同潤会アパート。1年後の2013年に取り壊された。すぐ目の前に落語長屋があった。台東区東上野5丁目。2012年6月29日。, 旧官邸の首相執務室を再現したスペースで、収録の松田喬和さん=高崎市末広町の青雲塾で, 福田太郎氏の病床での証言を報じる紙面(左)=『毎日新聞 ロッキード取材 全行動』から, Press announcement was attended by new inductees and guests as well as a large number of media and observers. 電話 03-3212-0321 おとなの掟(Doughnuts Hole) | 93. 二、無始よりの造りし罪も其の訳(まま)に、法の功徳で照らせ給へよ(根本) ●菅沼 完夫 2019年没、74歳。 後列左から浮田裕之、佐々木叶、中村侔、堀井淳夫、川合多喜夫、西重義、畝村治男, 安永 道義 1992年1月16日没、66歳 + escape(k_2) + "'");} 政治の生の変化に対応する姿勢は時に「風見鶏」と皮肉られたが、戦後政治に対し、新たな針路をもたらしたのは確かだ》, 国鉄分割・民営化の実現で、《戦後政治の一翼を担った国労、総評、社会党の崩壊へとつながり、戦後日本の政治体制であった「五五年体制」そのものが崩れ去ったのである》=牧久著『昭和解体』—国鉄分割・民営化30年目の真実―。, 松田さんは、行革が何故成功したか、中曽根さんから直接聞いた話を「汎交通」(2020年3月発行日本交通協会の機関誌)で紹介している。, 《NHKテレビで、自宅でメザシを摂る土光氏(土光敏夫第二臨調会長・当時経団連会長)が放映されたとき、「土光さんの清貧さがクローズアップされ、多くの国民の共感を呼び、行革は成功すると確信した」》, 松田さんは、1969年毎日新聞社入社。福島支局、東京本社社会部を経て74年政治部。横浜支局長、広告局企画開発本部長、論説委員を歴任。2004年4月から論説室専門編集委員。09年9月民主党政権下で首相番を務め、「松田喬和の首相番日誌」を自民党の政権復帰まで連載した。14年4月から現職。TBSテレビ「ひるおび」の政治コメンテーターやBS11「インサイドアウト」コメンテーターも務める。, 警視庁5方面クラブのお宝・手塚治虫が描いたトキワ荘の天井板に関連して方面クラブをネット検索すると、7方面本所署記者クラブは、下町の太陽・女優の倍賞千恵子さんを警察署に招いたという記事が出てきた。それも毎日新聞の瀬下恵介記者の仕掛けによるとあった。, 元朝日新聞記者岩垂弘さんのブログで、『ジャーナリストの現場―もの書きをめざす人へ』(2011年同時代社刊)として発刊されている。, ブログに写真が載っている。倍賞千恵子が東京五輪開幕直前の1964(昭和39)年10月1日「都民の日」に本所警察署を訪れ、方面クラブの記者たちから感謝状と記念品を受けたのである。今から56年前だ。, 警視庁第七方面記者クラブは、墨田、江東、江戸川、葛飾、足立5区の警察署を担当する。各社2人の記者が常駐していた。, 以下岩垂さんのブログから。《その日も事件がなく、クラブ員は暇をもてあましていた。とりとめもない雑談にあきたころ、毎日新聞の瀬下恵介記者が叫んだ。, 倍賞千恵子さんといえば、当時、新進の若手女優であり、歌手だった。『下町の太陽』という歌が大ヒット。彼女主演で映画化もされた。今ふうにいえば、人気上昇中のアイドルといってよかった。, 「下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」と瀬下記者。クラブ員はみな仰天した。彼の、そのとっぴょうしもない発想というか、思いつきに、である。が、「こんなむさくるしい所にくるわけがない」と、だれも相手にしなかった。, そんな中で、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を入れ続けながら、どこ かに電話をかけた。いったん切ると、またかける。いずれも随分長い電話だった。そして、彼はついに叫んだのである。, 《瀬下記者によれば、松竹本社に電話し、倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼んだ。相手は最初、難色を示していたが、どうしてもとねばったら、ついに「行かせましょう」と言ってくれたという》, 《「都民の日」の十月一日、彼女は本所署に一人でやってきた。私たちは署長室を借り、彼女を招き入れた。 ●立川熊之助 1989年没、69歳。 ラヴァーズ・コンチェルト(フジテレビ系「不機嫌なジーン」挿入歌(05)) 7. } 松浦年三郎(1931)札幌支局、学芸部、政治部、整理部。 一九七三年十二月十六日、銀座のレストラン「三笠会館」。あの「下町の太陽」娘はいまや大スターに変身していたが、本所署署長室での初対面で感じさせた庶民的な雰囲気を失ってはいなかった。この時の楽しいひとときは忘れ難い》, 殊勲者瀬下記者については、こう書いている。《瀬下氏は、その後、ニューズウイーク日本版発行人を務め、今は東京・神田にあるマスコミ人養成塾「ペンの森」の主宰者である》, 瀬下さんはことし82歳になる。80歳を契機に「ペンの森」を引退したというが、2012年11月5日瀬下塾・ペンの森OB会が発足、という記事をネットで見つけた。, 《300名以上いる卒業生の交流を活発化し、ペンの森をますます応援するため、従来のペン森関係者の交流組織「瀬下塾」をバージョンアップ。「瀬下塾・ペンの森OB会」を発足させていただくことになりました》, *方面記者クラブの話では、読売新聞の本田靖春著『警察(サツ)回り』(新潮社1986年刊)秀逸だ。6方面上野警察署で朝日新聞深代惇郎との交流などいずれの機会に紹介したい。, 元編集局長・西和夫さんの整理部時代の「知らざる一面」を紹介します。西さんは1955(昭和30)年頃から経済部へ異動するまで、ずーっと整理部記者でした。「俺はねエ、運動面の整理がやりたいから整理部へ来たんだよ」が口癖、とにかくプロ野球が大好きでした。, 2020年2月、西さんの訃報に接し、茲に改めて西さんのこだわり深い人物像が懐かしく思い出されてきたのです。, 昭和30年初頭の整理部では高原誠一さん(故人)が兵隊ながら運動面(スポーツ面という呼称はなかった)を長年にわたって独占編集していました。西さんは「俺にやらせろ!」と言ってはダダっ子のようにきかず、高原さんが休みの日は“オレオレ西さん運動面”が続くようになったのでした(かなり強引)。, 1958年秋には西鉄が3連敗から4連勝して巨人を倒した歴史的大逆転日本シリーズを担当、“鉄腕稲尾”の言葉は西さんが編み出してよく見出しに使いました。「あの日本シリーズはねえ、第5戦がキーだね。西鉄の奇跡を達成したのが第5戦だよ、モロちゃん」……のちのちまで語り草でした。, その第5戦……3-2で巨人リードの9回裏、もう絶体絶命西鉄は先頭打者・小渕泰輔(2塁手)が三塁線ぎりぎりを抜くファウル気味の2塁打(代走・滝内弥瑞生)、長嶋茂雄三塁手は「ファウル、ファウル!」と抗議したが審判認めず2塁打。豊田泰光(遊撃手)送りバント、滝内三進。中西太(三塁手)は3ゴロで二死三塁。ここで不振続きの関口清治(左翼手)は1-3から痛烈センター前ヒットでなんと同点にしてしまった。巨人は先発投手・堀内庄が快投を演じていたが9回裏走者を出したところで藤田元司(疲れていた)に替えたのがたたった感じ。延長10回には大友工投手が登板して8番打者・稲尾和久投手にレフト・サヨナラ・ホームランを浴びたのでした。稲尾は第4戦も完投勝ち(得点6-4)しているにも関わらず、この試合も4回からリリーフ登板して巨人打線を1安打に抑え込んだのでした。稲尾は1958年シーズン長打率.365 本塁打4本という一流打者で、「西鉄の底力をまざまざと見せつけられた」と巨人・水原茂監督。, 逆に西鉄の三原脩監督は「今日の作戦は失敗の連続だよ。9回裏、豊田にバントさせたのはその後の中西が犠牲フライを打つと思っていたからナ。俺は野球に自信なくしたネ」。6回裏の2点は豊田四球のノーアウト1塁から中西が2ランを放ったもので起死回生の2点だったから、三原はその続きを求めたのかも。三原は、さらに西鉄先発投手・西村貞朗が与那嶺要(左翼手)に3ランを食らい一死も奪えず1回で交代させにゃあならん事態も失敗したを繰り返した。, 1958(昭和33)年「日本シリーズ」第5戦 平和台球場 天野勝文(1957)論説委員。筑波大教授。日大教授。 ダウンロードランキングTOP5. いわき支局・遠井信久→横浜支局 横浜支局・柿崎紀男→福島支局 16 「東京湾景~Destiny of Love~」~君さえいれば (Weather Forecast ) タイアップ 「Days」 - テレビ東京「女と愛とミステリー」エンディングテーマ 「Life」 - TBS「愛なんていらねえよ、夏」主題歌 「Love Somebody(CINEMA Version Ⅱ)」 - 東宝「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封 … (註4) (『宮本常一日記 青春篇』資料編「『河内国瀧畑左近熊太翁旧事譚』より「河内国瀧畑入村記・左近翁に献本の記」, 写真とキャプションは『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。, 大阪警視庁・府警キャップ列伝を読んで、大阪社会部第29代社会部長・古野喜政さん(84歳)から思いついたことのメモが届いた。以下、全文を紹介します。, *伊予馨さん(1998年没81歳)は、ミナミの宗右衛門町だったかキャバレーの主人におさまっていました。仲々の男前でした。敗戦後、日本人記者が広島に入った時の毎日の“特派員“でした。「ピカドン」という言葉を初めて記事に入れた記者でした。伊予さんは「ボクが作ったわけでもなんでもない。広島の人が原爆といわず『ピカドン』と云っていました」と言っておりました。, *立川熊之助さん(1989年没69歳)は、ほんのわずかな期間、上司でした。立川は「タチカワ」「タテカワ」と広辞苑に出ていますが、「一族のものはタツカワが正しい」といっておりました。日常的には「タッチャン」と呼ばれていました。, 立川文庫の本家でしたから大変な金持ちでしたね。当時はカズノコが宝石のようにありがたがれておりました。正月、部員の大半がこのカズノコを目当てに、立川邸に集まりました。50人以上はいたと思いますが、その部員が「もうけっこう」というほどカズノコと酒が並びました。, タッチャンは“物識り”の評判の高い人でしたが、部長席の左の大きな抽き出しに辞典が数冊入っていて、部員がワイワイ云っておりますと、その辞典をそっと見て、「それはなや」と一席ぶっていました。小生はタッチャンの秘密を目撃したわけです。, *藤村拓郎さん(1983年没58歳)は、小生の知る限り社会部一の飲兵衛でした。事件記者でしたが、マージャン狂でもありました。大久保文男さん(府庁担当が長かった)と奥さんが姉妹でしたね。死んだのも同じ歳だったと思います。 橋本光司(1966)大阪本社編集局長。西部本社代表。 野沢隆一(1927)「帝国大学新聞」社長と呼ばれた。共同テレビニュース社長。 プロローグ(Uru) | 100.HAPPY BIRTHDAY(back number), 101. Endless Game(嵐) | 78. 2016年6月 第100回 日本陸上競技選手権大会 2位 2m25cm, ベトナム戦争でピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」。報道写真家・沢田教一さん(1970年カンボジアで狙撃され死去、34歳)の写真展が日本橋高島屋で開かれている(8月28日まで)。, 「おお、母子は無事だった」の大見出しがついた1966(昭和41)年7月3日付。「安全への逃避」の被写体になった2家族5人を沢田さんに同行して探し出して記事にしたのだ。特ダネだった。, クレジットに【サイゴン二日発柳原特派員】。柳原義次氏(1995年没68歳)。大阪本社社会部から外信部、ソウル特派員からサイゴン特派員になった。そしてボン支局長から大阪本社社会部長(第25代)。ちなみに24代は北爪忠士氏、(2009年没84歳)、26代は松永俊一氏。, 〈「柳(やな)ちゃん」の愛称で親しまれた。堺の古い家柄に生まれ、東大経済学部時代は作家の辻井喬(堤清二)氏らと、学生運動の旗を振ったこともあり、闘志と正義感は人一倍強かった〉, 〈振り出しの大阪社会部時代は若手造反グループ「デンケン会」の中心人物の1人で……外信部に移ってからも、毎日労組の委員長にかつがれ、「柳原執行部」という名の一時代をつくった〉, 〈(ボン支局長時代の)東欧では自由化の波がソ連の戦車に押しつぶされた「プラハの春」に同情のペンをとった〉, 大毎社会部100年史『記者たちの森』に、後輩の社会部記者・磯貝喜兵衛さん(元毎日映画社社長)が「ダンディズムと人情」の見出しで紹介している。, 沢田教一氏は、三沢基地の写真店で働き、1960年に上京してUPI通信社東京支局に入社した。同支局は有楽町の毎日新聞東京本社内にあった。1965(昭和40)年7月にUPIサイゴン支局のカメラマンとなり、「安全への逃避」は1966年にピュリツァー賞を受賞している。, 高知市の横山隆一記念まんが館(高知市文化プラザかるぽーと内、電話088-883-5029)で開催中の「隆一 珍コレクション展」(8月27日まで)。どんな珍品があるか、『週刊新潮』7月27日号で紹介された。, 冒険家植村直己さんの足の豆だこ、ハイセ―コーの毛などと並んで、〈東大安田講堂事件の時こわされた大理石、鍛治(壮一)氏贈〉、〈洞爺丸遭難、一等船室の窓枠など、毎日新聞函館支局坪松竹雄氏〉と、毎日新聞記者からが2点あった。, 横山隆一さんは毎日新聞朝刊に「フクちゃん」を長期連載(1956(昭和30)年1月1日?71(昭和46)年5月31日まで5534回)、毎日新聞社内でよく姿を見かけた。, 写真部から社会部記者となった鍛冶さんは、「母校」東大安田講堂事件の取材をして、現場から投石された同講堂の壁石を持ち帰ったのだろう。安田講堂落城(封鎖解除)は1969(昭和44)年1月19日だった。, 洞爺丸事故(1954(昭和29)年9月26日青函連絡船「洞爺丸」が台風第15号の暴風雨によって転覆、死者・行方不明1155人を出した。海難史上最大の惨事)の坪松さん(1994年没、81歳)は、当時函館支局長。支局員に命じて洞爺丸の乗船名簿を入手、それを特報した記者として名を残している。その詳細は『毎日新聞の24時間』(1955年刊、鱒書房)に本人が書いている。, 当時の新聞を見ると、毎日新聞は発生を報じる9月27日付朝刊1面に乗客名簿を載せている。専用線で電話送稿したのだから1千人を超す名簿を送り終えるまで何時間かかったのだろうか。翌日の夕刊にもさらにスペースを割いて掲載している。他紙は27日夕刊からで、名簿が特ダネになったわけだ。参考までに、この日の朝刊1面を。, ちょうど90年前に始まった都市対抗野球大会。ことしは第88回を迎え、7月14日に東京ドームで開幕した。参加32チーム。優勝戦は25日午後6時からだ。始球式は東京都知事小池百合子さんだ。, この大会は、明治神宮外苑に4万人収容の野球場新設(1926(大正15)年10月完成)から始まった。東京日日新聞と朝日新聞に各5千円の寄付が持ちかけられ、それを知った当時の東京日日新聞の野球好きの記者たちが、東京に相応しい一大野球大会を創設しようと企画した。ヘッドハンティングしたのが橋戸頑鉄(1879~1936)だった。, 頑鉄はイの一番で野球殿堂入りしているが、当時は大阪朝日新聞から大正日日新聞の記者をしていた。頑鉄は第1回早慶戦、日露戦争のときにアメリカ遠征したときの早大主将。その著『最新野球術』は、全国のプレヤ―の教科書となった。, 米大リーグを参考に都市対抗野球としたのは、頑鉄のアイデアだった。頑鉄は全国を回って社会人チームに参加を呼びかけた。優勝旗は画家の小杉未醒(のち放庵)に依頼、バビロンのレリーフから黒獅子が生まれた。, 参加12チーム。「暑中でもあり簡素を尊ぶ意味から入場式を省略し」と記事にある。華やかな開会式は夢のまた夢だったのだ。, 今年は戦後72年。毎年8月15日が来ると、日米直接和平工作に尽した先輩・藤村義朗海軍中佐(当時)のことが思い出される。, 当時、終戦工作として、モスクワでのソ連仲介工作、中国・重慶での繆斌(ミョーヒン)工作とともに、スイス・ベルンでの藤村先輩の和平工作があげられる。中でもスイス大使館付武官の藤村武官と米戦略機関欧州長官のアレン・ダレス氏との交渉が、最も実現性が高かった。しかしいずれも成功せず、歴史の歯車は正常に戻らず、日本のポツダム宣言受諾、降伏に至ったことは痛恨の極みである。, 藤村武官は、大阪の旧制堺中学の15年先輩で江田島の海兵卒、昭和15年海大卒、ドイツ大使館付武官補に赴任。私は京大卒、毎日新聞社に入社、休職、海軍予備学生として特訓後、昭和18年末士官任官、海兵教官に就任。先輩とは海軍でもご縁がある。, 昭和20年3月、先輩は敗戦で断末魔のベルリンからスイスに転任。親日家のドイツ人、ハック博士の紹介で米ダレス長官と終戦和平交渉に入る。先輩は若い頃から国士的で、日本をドイツの様にしてはならず何とか救いたいとの一念からだった。藤村武官から東京に緊急第一電が発せられたのが同年5月で、以後35通も暗号電を打たれたが、満足な返電は得られなかった。, この交渉に協力した人に、海軍嘱託・大阪商船の津山重美駐在員(暗号電作成)や朝日新聞社特派員、笠信太郎氏、横浜出生・ダレス機関員ブルーム氏らがいる。機密保持しながら東京の首脳部に打電された。しかし東京では、ソ連仲介を重視、スイスでの交渉には積極的でなかったようだ。, 日本側は和平条件に、①日本の主権・国体維持②商船隊の維持?台湾・朝鮮の維持を主張。米国側は①②は良いが?はヤルタ会談で決定済みで難しいとのことだった。, 戦況はいよいよ悪化、広島、長崎に原爆投下、沖縄焦土戦、東京空襲、米軍の日本本土上陸計画など、昭和天皇は陸軍の本土決戦計画、竹槍戦法などお叱りになり、終戦を決意される。スイスでの終戦和平工作は幻の挽歌に終わることになる。, 敗戦後、藤村先輩は帰国、日本再建に貢献すべく、神田で露天商を始め、東京・青山で貿易商・ジュピターコーポレーション開業、社是の第一条には「会社、社員の人格即ち品性を磨くこと」とある。また海兵の5省訓の第一条には「至誠に悖るなかりしか」とあり、「モラロジー」(最高道徳)を研鑚、品性を高め、まごころを貫くことにつとめられた。千葉県富津市にハイテク工場建設、特異な貿易商社として発展せしめ、平成4年3月富津で永眠、信望を集めた内外から悔やまれた。, 帰国後の藤村先輩に、米内海相は「スイスでの和平交渉に賛成、実現につとめたが力及ばず申しわけなかった」と詫びられたと、本人から聞かされた。, スイスでの終戦和平交渉は、藤村先輩自身の「思い出の記」やテレビドラマ「欧州から愛をこめて」、映画「アナザウエイ」、テレビドキュメンタリー「祖国へ緊急暗号電」等で記されている。, 先輩は「真の情報をつかみ、判断を的確にするのは、その人の品性による。非常時における最高リーダーの資質と判断がいかに大事であるか」を経験したと、私に語ってくれた。「知識より叡智を、真の情報をつかみ判断を誤らぬように」と先輩からの教訓でもある。(平成29年7月6日記) (注)河合喜久男さんは本年5月で満96歳になられました。, 写真部OBの中尾豊さんから「オレは有楽町最後の泊まり番だった。その日の写真をファイルしていたので送ります」とメールで。, 1966(昭和41)年9月22日最後の日の勤務表 (註2) 田村善次郎先生。元武蔵野美術大学名誉教授。『宮本常一著作集』(未來社)の監修者。2006年、今和次郎賞受賞。著作に『ネパールの集落』(古今書院)、『ネパール周遊紀行』(武蔵野美術大学)など。 1位 . 無造作紳士(ジェーン・バーキン) | 24. I LOVE...(Official髭男dism) |105. 註1 西井一夫 犬養 毅(木堂) 早 *川島良夫 ・記者の勇気を称える 空と君のあいだに(中島みゆき) | 2. (NHK BS-2ドラマ「オールイン 運命の愛」主題歌) 君さえいれば Weather Forecast (CX系月曜21時連続ドラマ「東京湾景」主題歌) ヤマハ関連サイト.